寄席発祥の地
現在の下谷神社は、明治5年以前は「下谷稲荷社」が正式名称でした。江戸時代、寛政10年(1798)6月に初代山生亭花楽が下谷稲荷社(現下谷神社)の境内で五日間の寄席興行を行いました。これが江戸における最初の寄席興行といわれております。落語自体はもっと前から存在しましたが、それ以前の落語は、身分の高い方の前で一対一で話をしたそうで、寄席の定義というのは一般の人を対象に、木戸銭をとって落語を聞かせることだそうです。
馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎という人が、山生亭花楽と名乗り「風流浮世おとし噺」の看板を掲げ、下谷稲荷社(現下谷神社)の境内の賭け小屋で、一般の人を対象に木戸銭を取って落語を聞かせました。これが江戸における最初の寄席興行といわれており、寛政の後の文化・文政の時代には百数十軒にも増加したそうです。山生亭花楽の名前の由来は「山椒は小粒でピリリと辛い」をかけて付けられたそうです。山生亭花楽は後に三笑亭可楽と名前を変え現在は9代目です。
平成10年(1998年)寄席発祥二百年を記念して、都内四つの亭席・落語協会・落語芸術協会を始め落語関係者の協力により境内に記念碑が建てられ、同年4月10日、落語関係者二百名参列の下、除幕式が執り行われました。
下谷神社拝殿天井絵「龍」(横山大観画伯筆)
関東大震災により社殿を焼失し、1928年(昭和3年)現在地に移転する際、新築する拝殿には後世永く誇り得る如き立派な絵を天井に掲げたいという氏子一同の念願もあり、「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した近代日本画壇の巨匠 横山大観(よこやまたいかん)に拝殿天井絵を依頼しました。
三度の飯よりお酒が好きだった大観画伯は、「立派な社殿を造るのにさぞやお金が掛かっただろう。神様の事だからこれはそっくり奉納する。こんなお金持ってこなくていいから、もっと大勢で両手に酒ぶら下げて来い。」とおっしゃられたと云われています。この時の大宴会が御礼の代わりになったという神社や氏子にとって誠に有り難い話である。
子規の句碑
正岡子規は明治27年(1894年)から35歳で没するまで台東区根岸に8年間住み、ここで友人や門弟 たちと句会などを開催して俳句を詠んだ。正岡子規の没後100年となる平成13(2001)年の前後、台東区では正岡子規没後百周年記念事業として様々な企画や催しが行われました。この記念事業の一環として、台東区俳句人連盟が中心となり、子規が台東区内で詠んだ約2000句の中から十句ほどが選び出され、台東区内の子規所縁の場所に句碑が都合11基が建立されました。
その中のひとつである下谷神社境内の句碑には、江戸で始めて寄席が催された「寄席発祥の地」をちなんだ句「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」が刻まれています。
正岡子規の創り出した俳句という文学形式は広く受け入れられ、いまや日本だけでなく世界中で俳句が詠まれています。子規の偉業はこれら句碑を通じて、後生に永く称えられていくと思います。
ドライミスト
当社では猛暑日にこのドライミストを稼働しています。
参拝者の方々に少しでも涼を感じて戴ければ幸いです。
また、手水と同じく、水には清めの効果もあります。この下を潜り、清らかな心で参拝いたしましょう。
ドライミストは、水を微細な霧の状態にして噴射し、蒸発する際の気化熱の吸収を利用して主に地上の局所を冷却する装置です。水の粒子が小さいため素早く蒸発し、肌や服が濡れることもありません。ミストとは霧のことであり、「噴霧」「霧散布」「ミスト散布」とも呼ばれ、英語では「mist spraying」と言われています。